へのへのもへじ、という言葉を聞けば、
「へ」が眉を、「の」が目を表した「人の顔」が浮かぶ。
これは、そもそも「へのへのもへじ」とは何かを知っているからですよね。
棒が一本あったとさ。
こんな出だしで始まる絵描き歌も、最終的に「かわいいコックさん」になる、
そう習ったことがあるから書けるのです。
知らなければ、「へのへのもへじ」を書いてみてと言っても、
単にひらがなを羅列してしまう人がいるかもしれません。
棒が一本、といった時点で、その棒を縦に書いてしまうこともあるでしょう。
文化というのは、共通の認識で成り立っています。
説明がなくても「そうするものだ」というお互いの了解があり、
そのことで、一種の安心感ももたらされます。
異国に暮らすということは、
周りに「へのへのもへじ」が描けない人が大勢いるということです。
(もちろん、「へのへのもへじ」が描けなくても大きな問題は生じません。
ひとつの例として、です)
逆に、ドイツの絵描き歌(Malspiel)を知らなければ、
Punkt, Punkt, Komma, Strich(点、点、コンマ、線)と聞いて、
ドイツ人が思い描くものを正しく表すことは難しいでしょう。
適応能力には個人差があり、また、年齢による変化もあります。
以前は平気だったことが億劫になったり、負担になってきたりします。
そういうときに、「へのへのもへじ」で人の顔が描ける人同士なら、
面倒な前置きは省いて、痒いところに手が届く配慮ができるような気がします。
異文化の中に身を置いて、老後について想像したとき、
文字絵や絵描き歌のことが、ふと頭に浮かびました。
たかが「へのへのもへじ」ですが、どう描くかというのは、
結構深い問題、かもしれません。
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